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金沢地方裁判所 昭和47年(わ)171号 判決 1975年10月27日

主文

被告人霜上を死刑に、被告人川北を懲役八年に処する。

被告人川北に対し、未決勾留日数中一一〇〇日をその刑に算入する。

被告人霜上から、押収してあるナイフの刃体の一部が付いている木造柄一本(昭和四七年押第五三号、第九五号の各一)、右ナイフ刃体の中央部と思われる刃体片一個(同各号の二)を没収する。

理由

(被告人両名の経歴)

一  被告人霜上の経歴

被告人霜上は、昭和二一年一月一五日、石川県江沼郡山中町四十九院町において、父霜上鉄男、母美弥子の長男として生まれ、両親の許で養育されたが、出生時に栄養失調にかかつたほか、三才位の時には舞踏病に罹患し、更に小学校三年生の時に結核性股関節炎を患つて二か月程東京慈恵医大病院に入院し、そのため一年間卒業が遅れるなど幼少時は病弱であつたが、山中中学校を卒業してからは大した病気もせず、山中町の石橋樹脂工業に工員として一年程働いた後、家業である漆器の蒔絵を手伝つて現在に至つている。なお、その間バイクを無免許運転して警察に補導されたことがあるほか前科、前歴はない。

二  被告人川北の経歴

被告人川北は、昭和二三年五月一九日、石川県江沼郡山中町こおろぎ町において、父川北重郎、母富子の長男として生まれ、両親の許で養育されたが、栄養不良が原因で発育が遅れ、三、四才になつてようやく歩行できるような状態であつた。しかし、小学校へは普通に入学し、小学校五年生の時に脊椎湾曲症に罹患して一年間国立山中病院に入院したことがあつたほかは大した病気もせず、無事に山中小学校、山中中学校を卒業し、中学校卒業後は家業の手伝いをして現在に至つている。なお、その間に前科、前歴はない。

三  被告人両名の出会い及び第一ないし第三の犯行に至る経緯

被告人両名は、学校時代には被告人霜上が二年上級であつたこともあつて何らのつきあいもなかつたが、昭和四一、二年頃、盆踊りや喫茶店などで顔を合わせるようになつたことから自然に交際が始まり、二人でドライブに行つたり、スナツクなどに飲みに行つたりしているうちに、昭和四三、四年頃からはほとんど二人だけで交際するようになり、仕事が終わつた後にスナツクやトルコ風呂などで夜遊びを重ねるようになつた。被告人霜上は、父鉄男から月々二万円の小遣いをもらつていたが、飲酒遊興費が嵩むため、次第に小遣銭に不自由するようになつたが、父に対しては小遣いをもらつている手前もあつて、飲酒遊興に費消するため小遣いが不足するとも言えず、そのため講からの借り入れで出費をまかなうべく、昭和四七年三月中旬頃勝友会から二万円を、同月二〇日過頃生流会から同様二万円を借り入れた。しかしながら、右借り入れ金の返済については、前述のとおり父に相談することもできず、また、月々の小遣いは飲酒遊興に費消してしまうため、その見込みが立たず、更に、勝友会では同年六月三日に関西・大阪方面の旅行が予定されていたが、その費用調達のあてもなかつたことから、金銭の捻出に苦慮していたところ、被告人川北をして同年二、三月頃飲屋で知り合つた金融業者宮川から金借をさせたうえ、被告人川北を殺害してこれを強取しようと企て、同年四月下旬頃、被告人川北に対し、「家が面白くないから暫らくどつかへ行つて来よう。わしは家から四、五〇万円用意する。」旨申し向け、被告人川北から「金を用意できない。」旨返答されるや、「知つている高利貸を紹介してやるから三〇万円借りたらどうか。返せない時はわしが家から四、五〇万円借りてくるからそれで払つたらよい。」旨申し向け、同人をして宮川からの金借を決意させ、被告人川北を宮川に引き合わせて三〇万円の借り入れを申込ませたところ、保証人が必要となつたので、被告人霜上において、友人である出嶋武夫(当時二四年)にその旨依頼し、被告人川北ともども保証人になつてくれることを懇請した結果、同年五月七日に至つて出嶋の承諾を得、翌日一緒に印鑑証明書を取りに行く約束をして宮川からの金借の手筈を整えた。

(罪となるべき事実)

第一  被告人霜上は、宮川に対しては宮本という偽名を使用していたことから、出嶋を殺害したうえ被告人川北をも殺害すれば自己の犯行を隠蔽することができると考え、出嶋の殺害を決意し、右出嶋方からの帰路同日午後九時頃、江沼郡山中町栄町二八三番一地灯明寺付近路上において、被告人川北に対し、「宮川から金を借りた後お礼をやると言つて出嶋を誘い出し、出嶋をバラそう。俺はナイフでやるから君はまさかりでやつてくれ。宮川もやつてしまえば金を返さなくともよいし、家の者にもばれないですむ。二人共やつてしまおう。」と提案したところ、被告人川北もこれに同意し、ここにおいて被告人両名の間に出嶋を殺害することについて共謀が成立し、同月一〇日、宮川から三〇万円を借用したが、小切手であつたため、出嶋殺害を延期し、宮川方からの帰途、加賀市山代温泉幸町二七番地出嶋方付近路上において、出嶋に対し、被告人川北が、「実は小切手やつたので明日銭にかえてから礼をする。どこかへ飲みに行こう。明日午後八時三〇分頃、前の道路に出ていてくれ。」と申し向けてその旨約束し、翌一一日午後八時過頃、被告人霜上運転の普通乗用自動車に根切りよきとスコツプを載せて前記出嶋方付近路上に赴き、同所において出嶋を乗車させて、同日午後九時頃、山中町東町二丁目ホ部一四一通称南又林道の奥に連れ込み、同所に停車させた自動車内で、被告人霜上が出嶋の左側に座り、「どこか面白いところないか。」と話しかけて油断させ、いきなり所携の切出し小刀(昭和四七年押第五三号、第九五号の各一、二はその一部)で同人の左脇腹を一回突き刺したうえ、その胸倉をつかんで車外へ引きずり出し、車の後ろの方へ逃げていつた同人を追いかけ、その腹部などを数回突き刺し、更に、被告人川北において自動車の後部トランク内から取り出した根切りよきを受けとつて、倒れている出嶋の頭部をその峰で一回殴打し、よつて右犯行による受傷により同人をその場で死亡せしめて殺害の目的を遂げた

第二  被告人両名は、共謀のうえ、右犯行直後、犯跡を隠蔽する目的で、右出嶋の死体を右現場付近の谷川の橋下に投棄し、もつて死体を遺棄した

第三  被告人霜上は、前記第一、第二記載の犯行後その帰宅途中、被告人川北に対し、「五月一四日の午後〇時三〇分頃、山中町役場で落ち合つてどこかへ遊びに行こう。」と申し向けてその旨約束し、同日午後〇時三〇分頃、山中町役場付近において、同人を自己の運転する軽四輪自動車に乗車せしめ、福井県東尋坊方面などをドライブした後、同人に対し、「蕗取りと出嶋の死体を埋める場所を探しに行こう。」と申し向けて、同日午後六時過頃、加賀市須谷町地内の通称学校山の下林道に連れ込み、下車して死体を埋める場所を探していた同人の背後からいきなりその顔面に所携のクリープの容器に入れた水を浴びせかけて目つぶしをし、携えていた前記切出し小刀(昭和四七年押第五三号、第九五号の各一、二はその一部)でもつてその右脇腹を一回突き刺し、更にその顔面、胸部などに切りつけたが、同人が右小刀を両手でつかんで必死に抵抗したうえ、更に、隙を見て自動車に飛び乗り、その場から逃げ延びて通行人に救助されたため、被告人川北に対し、安静加療一か月間を要する右前胸部貫通刺創、右第九肋骨骨折、顔面、右胸部、両肩、右上腕、右手掌、右肘部切創などの傷害を負わせたにとどまり、同人殺害及び金員強取の目的を遂げなかつた

ものである。

(証拠の標目)(省略)

(法令の適用)

被告人両名の判示第一の所為は刑法六〇条、一九九条に、同様判示第二の所為は同法六〇条、一九〇条に、被告人霜上の判示第三の所為は同法二四三条、二四〇条後段に各該当するところ、被告人霜上については、判示第一の殺人罪につき所定刑中死刑を選択し、これと判示第二、第三の各罪とは同法四五条前段の併合罪の関係にあるので、同法四六条一項本文に従い他の罪の刑はこれを科さないこととし、被告人川北については、判示第一の殺人罪につき所定刑中有期懲役刑を選択し、これと判示第二の罪とは同法四五条前段の併合罪なので、同法四七条本文、一〇条により重い判示第一の罪の刑に同法四七条但書の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人川北を懲役八年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一一〇〇日をその刑に算入し、なお押収してあるナイフの刃体の一部がついている木造柄一本(昭和四七年押第五三号、第九五号の各一)及び右ナイフ刃体の中央部と思われる刃体片一個(同各号の二)は、判示第一、第三の各罪の関係で、いずれも同法一九条一項二号、二項に該当する物件であるから、被告人霜上からこれらを没収し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項但書により被告人らには負担させないこととする。

(弁護人の主張に対する判断及び補足説明)

第一  殺人、死体遺棄事件について

林弁護人は、被告人霜上は本件については全く関知しておらず、無罪である旨主張するので、これについて以下のとおり判断する。

一  はじめに

本件について特徴的な点は、(一)共犯者と目される被告人両名のうち、被告人川北(以下単に川北という。)が取調の当初から公判廷に至るまで終始一貫して犯行を自白しているのに対し、被告人霜上(以下単に霜上という。)はこれを全面的に否認し、アリバイをも主張していること(二)被害者である出嶋武夫(以下単に出嶋という。)の頭蓋骨には陥没骨折が存し、これが死亡原因の一つであつたと考えられるところ、これから特定の凶器を推定することは困難であるうえ、川北自白にかかる凶器の一つである根切りよきが発見されていないこと(三)したがつて、霜上の有罪無罪を決する鍵は川北自白の信憑力の如何にかかつているわけであるが、その信用性については、川北の能力及びその利害関係に鑑み、十分な吟味を要することであるが、以下事実認定の合理性を担保するため、第一に、証拠上全く疑う余地のない外形的事実を抽出し、第二に、その外形的事実に結びつく犯人として川北がその一人であることが疑いのない事実となつていることを明らかにし、第三に、霜上が犯人としてその外形的事実に結びつくものであるか否かを(一)物的証拠の有無(二)川北自白の信用性(三)霜上のアリバイ(四)犯行の動機(五)総合的考察の順に検討することとする。

二  証拠上疑いの余地がない外形的事実

本件において、証拠上疑いの余地がないものとされる事実は、次のとおりである。

1 昭和四七年七月二六日午前一一時頃、石川県江沼郡山中町東町二丁目ホの部一四一番地通称南又林道の谷川で、山中町役場の職員によつて白骨死体が発見されたが、右白骨死体の頭蓋骨右前頭部には陥没骨折が存するほか、その着衣には刃器によつて生じたものと思われる多数の損傷痕があつたことから、何人かによつて殺害され、遺棄されたものと認められること

2 右死体の身元は、その着衣、所持品から、家族の手によつて出嶋と確認されたが、同人は、昭和四七年五月一一日午後八時頃、家を出たまま行方不明となつていたこと

3 昭和四七年五月八日、加賀市役所に出嶋名義の印鑑登録の申請がなされ、同日印鑑証明書一通が交付されたこと

4 同月一〇日付振出の、振出人宮川作衛、支払人北国銀行小松支店、額面金額金二五万二〇〇〇円、裏面に山中町川北重昭なる記載のある小切手及び振出人川北重郎、支払期日昭和四七年七月八日、支払場所北国銀行山中支店、額面金額金三〇万円、第一裏書人欄には出嶋武男なる記載があり、同人の実印が押捺されている約束手形各一通が存在し、右

小切手は同月一一日支払われたこと

そこで、次に、右の外形的事実に結びつく犯人について検討を進めよう。

三  川北が犯人であること

犯人が一人であるかあるいは数人であるかについては暫く措き、川北が犯人であることについては、同人が死体発見後間もなく逮捕されてから現在に至るまで終始自白していることと、後述のとおり、川北の自白に基づいて出嶋が外出した時に履いていた茶色革短靴が昭和四七年七月二九日、加賀市潮津町ロ一九の草地内から発見されたことによつて極めて明らかである(茶色革短靴は、それのみでは必ずしも決定的な証拠とはいえないが、これが川北の自白に基づいてはじめて発見されたという事実は、自白の真実性を強く裏付けるものであり、自白と相俟つて川北が犯人であることを疑いの余地なく物語るものといわなければならない。)。

四  霜上の加功の有無

(一)物的証拠

霜上が川北の右犯行に加功しているか否か、換言すれば霜上と本件犯行との結びつきを証明すべき物的証拠の存否につき検討しよう。

(1) 本件犯行に使用されたと思われる普通乗用自動車(以下単にブルーバードという。)の後部座席に血痕が附着していたこと

第三回公判調書中の証人中島正雄の供述部分、昭和四七年八月一一日付「鑑定書の送付について」と題する書面及び石川県警察本部刑事部鑑識課長作成の同年七月二九日付「普通乗用自動車の血液予備試験結果について」と題する書面によれば、ブルーバードの後部座席のビニールカバーの縫い目の糸の部分(同書面添付図面Bの部分)に人血が附着し、同様同図面Aの部分に血痕の疑いがある物質が附着していた事実が認められる。

なるほど、人血の血液型は不明であり、かつ、いつ頃附着したものかを断定しえないかぎりにおいては、右人血の附着は直ちに霜上を本件犯行に結びつけるものではないといえる。しかしながら、霜上鉄男の検察官に対する昭和四七年八月一二日付供述調書によれば、ブルーバードは、供述時から三年半位前に購入し、座席のビニールカバーは、購入後一年半位経つた頃自動車屋でかぶせてもらつたが、過去に座席が血痕で汚れたということはなかつたことが認められ、また、川北の自白にかかる犯行場所と当該人血附着部分が一致すること、川北自白によれば、霜上は犯行後座席に附着した血痕の汚れを拭き取つたことになつているが、前記証人中島正雄の供述によれば、ビニールの場合、仮りに血痕が附着しても中に浸み込まないため全部拭き取ることが可能であるが、糸の場合には中に浸み込んでいるケースがあり、本件の場合も中に浸み込んだものが検出されたものと考えられることが認められ、これらの事実を総合すれば、ブルーバードが本件犯行に使用されたと認められるかぎり、本件のようにビニールカバーの縫い目の糸の部分からのみ人血が検出されたという事実は、却つて霜上と本件犯行とを結びつける有力な情況証拠たるを失わない。

そこで更に進んでブルーバードが本件犯行に使用されたか否かについて検討を加えよう。森基弘の司法警察員に対する供述調書及び押収してある伝票つづり(山中ゴルフセンター五月一一日分一〇枚)一つづり(昭和四七年押第九五号の三七)によれば、霜上鉄男、駒木正治が昭和四七年五月一一日、山中ゴルフセンターでゴルフの練習をしたことが、又霜上鉄男の検察官に対する昭和四七年八月二九日付供述調書(標目書番号第55番)によれば、同人は昭和四七年中に一度山中ゴルフセンターから駒木に送つてもらつたことがあることが、更に第五回公判調書中の証人駒木正治の供述部分並びに同人の検察官及び司法警察員に対する各供述調書によれば、同人は五月一一日霜上鉄男から「息子が車に乗つて行つたから、帰りに乗せて行つてくれ。」といわれて霜上鉄男を同乗させて帰宅したこと、その日が一一日であることは、五月一〇日の水曜日に初めてゴルフのレツスンを受けたが、翌日も折角レツスンを受けたのだから忘れないようにと思つて練習に行つたが、続けてきたのはその時だけであることから良く記憶していることが、それぞれ認められ、右認定に反する霜上鉄男の供述はそれ自体あいまいであつて到底採用しがたい。そしてこれらの事実にブルーバードの鍵は霜上鉄男と霜上が一つずつ所持していたことを併せ考慮すれば、五月一一日には霜上においてブルーバードを使用したものと認められる。もちろん、このことから直ちに霜上がブルーバードを犯行に使用したといえないことはいうまでもないが、霜上は川北と遊びに行くときは軽四輪自動車かブルーバードを使用していた事実に鑑みれば、ブルーバードが本件犯行に使用された蓋然性は相当に高いものといつてさしつかえなく、そうだとすると、ブルーバードの後部座席のビニールカバーの縫い目の糸の部分からのみ人血が検出されたという事実は、霜上と本件犯行とを結びつける有力な情況証拠というべきである。

(2) 凶器の一つとされる切出し小刀の存在

川北自白によれば、霜上は切出し小刀でもつて出嶋を数回突き刺したことになつているが、果してその切出し小刀は存在するであろうか。この点に関して検察官は当該切出し小刀は強盗致死未遂事件の凶器とされる霜上所有の切出し小刀(昭和四七年押第五三号の一、二)と同一であつて、霜上所有にかかる切出し小刀が犯行に使用されたことをもつて霜上と本件犯行とを結びつける有力な情況証拠とされる。強盗致死未遂事件において霜上が自己所有の右押収にかかる切出し小刀を使用した事実は霜上の自認するところであり、又当該切出し小刀が他人に使用されたという余地のない本件においては、両者が同一だとすると、これは霜上と本件犯行とを結びつける極めて有力な物的証拠となることは言を俟たない。

ところで、川北は、第九回公判において、「右押収にかかる切出し小刀は、霜上が出嶋を突き刺した小刀と似ていることは似ているが、刃先が欠けているのでこれと同一かどうかはわからない。」旨供述し、又霜上方工場で使用されていた同形の切出し小刀を示されて、こういうようなもので刃の部分がといで細くなつておつたと思う。」旨述べている。

次に、何川凉作成の昭和四九年九月一七日付鑑定書によれば、両者とも刃器であり片刃であることはほぼ間違いないこと、刃の幅については、強盗致死未遂事件では約一・七センチメートルないし二・一センチメートルのものが考えられ、殺人、死体遺棄事件では約二センチメートルのものが考えられるから、刃幅はよく類似していること、両方の資料において最も典型的な刺入口の性状を示すと思われる資料九五―一七の損傷二(殺人、死体遺棄事件)と資料五三―三の損傷四(強盗致死未遂事件)(いずれも肌着で皮膚に密着する。)を比較してみると、損傷の長さは、前者は二・一センチメートル、後者は一・七センチメートルでやや差違があるが、凶器の刺入の深さも関係するからこれで凶器が異るといえるものではないし、むしろよく似ているともいえること、資料五三には右側腰部下方に刺入口二・一センチメートルの損傷もあり、これなら剌入口の長さも全く一致していること、ただ資料五三では損傷一及び八のように刃先が鋭利とは思われない特異な損傷も含まれるので両方の資料がすべて同一凶器で可能ということはできないことが認められる。右鑑定書の最後の部分だけを見ると両者は同一のものではありえないようにも読めるが、右鑑定書によれば資料五三の損傷一及び八と損傷四及び九とでは刃先の性状が異なり、前二者は刃先が鈍のように考えられるとなつていて、これによれば霜上は強盗致死未遂事件において二様の凶器を使用したことにもなりかねないが、この可能性がないことは強盗致死未遂事件の証拠上明らかであり、又第二四回公判調書中の証人何川凉の供述部分によれば、その趣旨は、凶器の働かせ方によつていろいろ違いがでてくるので結局傷の性状だけから凶器の同一性を断定することはできないというものであつて、両者が同一ではありえないとするものではなく、前記川北自白、右鑑定書の記載、何川供述を総合すれば、むしろ両者は同一のものである可能性が相当高いものと認められるうえ、更に第二三回公判調書中の証人霜上鉄男の供述部分によれば、霜上方工場には切出し小刀は二本しかないこと(そのうちの一本は強盗致死未遂事件の凶器であり、他は後日霜上鉄男から押収されたが事件と無関係なことが明らかである。)が認められ、この点をも併わせ考えると、両者は同一のものと認めてさしつかえない。

(二) 川北自白の信用性

本件において霜上の有罪無罪を決する鍵が川北自白の信憑力の如何にかかつていること、しかしながら、その信用性を判断するにあたつては、その能力、利害関係に照らし十分な留意を要することは、初めに指摘したとおりであり、以下事柄の重大性に鑑み、(1)川北の能力及び性格(2)利害関係(3)供述態度(4)供述内容(5)供述の経緯及び取調状況(6)総合的考察の順に検討を試みよう。

(1) 川北の能力及び性格について

医師松原太郎作成の川北重昭鑑定書によれば、川北の知能水準は、鈴木、ビネー式個人知能検査では一一才九か月の児童のそれに一致し、知能指数は七三で精神薄弱者としては上限界に該当すること、脳研式標準知能検査では知能年齢は同様一一才児のそれに相当し、特に前後の関係から将来を見通す能力に欠けていること、問診の結果からは、川北の知能は軽度に低く、特に目立つことは抽象的概念の内容が貧困で判断能力も劣つていること、計算は簡単な加減はできるが、乗除は全く不可能であること、しかしながら、記銘力は、三宅式記銘力検査法によれば、知能検査成績に比べて良好であること、性格については、矢田部・ギルフオード性格検査によれば、物事を良く考えることをしないで、呑気、思考的外向性が目立ち、情緒的安定も普通であつて、その性格は混合型に属していること、ロールシヤツハテストでは、全体を見通して適切な判断ができず、いつも図型をあいまいな捉え方をしており、このことからも知能水準、特に判断力の障害が示されること、観念内容が貧困で内的空虚さを思わせ、又しつこく追及すると反抗的傾向があること、しかしながら、幻聴、妄想など特別な精神異常所見は認められないこと、が認められ、又、第二七回公判調書中の証人川北富子、同川北重郎の各供述部分及び川北重郎の司法警察員に対する供述調書によれば、川北の性格は温順で、人とけんかをしたり、乱暴をしたことはなく、気が小さくて知能が低いから誰の言うことでも善い事でも悪い事でもよく聞くので他人に利用されやすいこと、仕事の面でも普通の人の半分もできないため雑役に従事していたこと、が認められる。

以上のような川北の能力、性格は、川北自白の信用性を判断するに当つて十分留意されなければならないことはいうまでもないが、当裁判所としては、それだけにとどまらず、更に右のような人格論の考察が川北の単独犯行説を否定する一つの有力な証左となることをここに指摘しておきたい。

ところで、川北自白の要旨は捜査段階から概ね一貫しているのであるが、若干の矛盾や混乱があることもまた否定しがたい。その代表的なものは(一)宮川殺害の話が出たのは五月七日か一一日か(二)出嶋殺害の動機(三)凶器は根切りよきかまさかりか(四)凶器で殴打した部位は出嶋の前頭部か後頭部かなどであろうと思われるが、これらの点は、犯罪事実中の重要な部分であり、真犯人ならば当然に知つていなければならない事項であると考えられるから、見方によつては、これらの矛盾、混乱は致命的なものと写ることを否定しがたい。しかしながら、当裁判所としては、これらの矛盾、混乱を考えるに当つて、前述したような川北の能力、性格を十分に考慮することによつて、これらの矛盾点を相当程度合理的に説明することができるものと考える。すなわち、根切りよきとまさかり、前頭部と後頭部の混同は抽象的概念の貧困に起因するところが大であると考えられ(現に川北はまさかりと表現したものについて根切りよきを図示し、「後頭部」と表現した部位について「額の部分」を指示したことは同人の公判廷における態度から明らかなところである。)、又、宮川殺害の話については、何ら具体的な話がでなかつたために、川北の印象が薄く、順序立つた記憶の中に残らなかつたものと考えられ、そのため後から類推判断しようとして混乱が生じているのではないかと思われるし、更に出嶋殺害の動機についても、川北自身一般通常人が考えるような合理的な理由を考えたと見るには多大の疑問があり、むしろ川北の最も信頼する霜上の提言であつたがために、霜上の言うことをそのまま鵜呑みにして行動を共にしたのではないか、そうであるからこそ、後に公判廷において、理詰めの尋問により供述の不合理を追及されて返答に窮し、そのためしばしば沈黙せざるを得なくなつたのではないかと考えられる。

(2) 利害関係について

川北については、二方面からの利害関係を考慮しなければならない。すなわち、一つは、自己の刑責の軽重との関係であり、川北が自己の刑責の軽からんことを願つて霜上を共犯者として引き入れ、これに犯行の主たる役割を押しつける危険性であり、他は、霜上に対する怨恨、すなわち、川北は、強盗致死未遂事件においては、逆に被害者となつていることから霜上に対する悪感情が作用する危険性とである。もつとも、だからといつて直ちに川北自白が虚偽であると断ずることは相当でなく、右利害関係の影響を考えるに当つても、川北の能力、性格を考察すべきこというまでもないが、川北自白の内容に照らし、右利害関係の存在は十分に留意されなければならない。

(3) 供述態度

川北の供述中に若干の混乱やあいまいな点があり、又黙して答えない場面が散見されることは弁護人の指摘されるとおりであるが、この点のみによつて川北自白を虚偽と決めつけることは相当でなく、その信用性は、他の証拠によつて認められる客観的事実と符合するか否かを具体的に検討することによつて吟味しなければならないが、川北は、公判廷においては、真実を語るべく真摯な努力を重ねたものと認められるうえ、忘れた点やあいまいな点を自らの憶測で補足し、辻褄を合わせるような供述態度は見られなかつたこと、共犯者とされる霜上が否認の態度に終始したにもかかわらず、悪びれることなく自己の自白を一貫し、又、供述の矛盾やあいまいさを指摘されて「嘘を言つているから供述が二転三転するのじやないか。」と再三にわたり追及されても、何ら動揺することなく自己の供述を維持したことなどから、当裁判所としても、川北の供述態度に対しては高い評価を払いたいと思う。

(4) 供述内容

川北自白の要旨は論告要旨及び弁論要旨の中に詳細に引用されているので、ここに再述することを避け、以下項目毎に霜上の供述と対比しつつ、他の証拠によつて認められる客観的事実と符合するか否かを具体的に検討することとする。

(Ⅰ) 大阪行の話の件

川北と霜上との間で、昭和四七年四月下旬頃、家出をして大阪方面へ行く約束ができたことについては両者の供述は一致する。ところが、大阪行の話をどちらが持ち出したのか、その目的、準備する金額の点になると両者の供述は食い違つてくる。いずれが真実であろうか。当裁判所としては、検察官及び神保弁護人が指摘されると同様の理由から川北自白が正しいと解する。すなわち、霜上は、殺人、死体遺棄事件の発覚前、強盗致死未遂事件の被疑者として取調を受けた際、取調官に対し、川北自白に符合する供述をなしている(霜上の検察官に対する昭和四七年五月三〇日付及び司法警察員に対する同月一七日付各供述調書)が、右供述の時期からして取調官の誘導ということは考えられず、霜上が自発的に供述したものと認められるからである(そしてそうだとすると殺人、死体遺棄事件の発覚に伴い、供述を変更した霜上の不可解な態度が問題とされねばなるまい。)。

次に、金額の点につき、川北は、「霜上は、『四、五〇万円家から用意する』旨話した。」と供述するのに対し、霜上は、「四、五日遊びに行く考えであり、その費用として五、六万円用意すればよいと思つていた。」と述べるが、この点に関しても川北自白が真実であると考える。すなわち、川北が宮川から金三〇万円を借りたことについては霜上も争わないが、仮に霜上の供述が正しいとすると右借入れ金額は余りにも過大であるといわなければならないし、殊に川北には右貸金返済の見込みは全くなく、霜上から「返せない時はわしが家から持つてきた金で返せばよい。」といわれて三〇万円を借り入れた経緯に照らし、川北自白により合理性が認められるからである。最後に、目的の点についても、右借り入れ金額からして相当長期の滞在を予定していたものと考えられ、川北自白に不自然な点はない。

(Ⅱ) 宮川からの金員借用の件

この件に関する川北自白のうち、大阪行きの費用を高利貸から借りることになり、最初霜上一人で宮川方へ行き金員の借用を申し込んだこと、次に霜上が川北を連れて宮川方へ行き金三〇万円の借用を申し込んだこと、その際霜上は宮本という偽名を使用したこと、ところが、川北において父の印鑑証明書が取れなかつたために、再度宮川のところへ相談に行つたところ、保証人をつけてその印鑑証明書を持つてくれば金を貸すといわれたこと、五月八日、霜上、川北、出嶋の三名が加賀市役所へ行つて出嶋の印鑑証明書一通を取つて来たこと、五月一〇日、霜上と川北の両名で宮川方へ行つたが、川北一人が宮川宅へ入り(霜上は外で車の中で待つていた。)、宮川から父川北重郎振出名義、額面金額三〇万円の約束手形一通を交付するのと引換に額面金額二五万二〇〇〇円の小切手一通を受取つたこと、五月一一日昼頃、霜上、川北の両名が小松へ行き、北国銀行小松支店で右小切手を換金したこと、以上の事実については、霜上も自認するところであり、かつ右自白に沿う証拠物の存在、第四回公判調書中の証人宮川作衛の供述部分並びに同人の検察官及び司法警察員に対する各供述調書など十分の裏付け証拠が存在する。殊に、五月八日、印鑑証明書の交付を受けた事実については、川北は、七月二八日の司法警察員に対する供述調書中でその旨自白し、右自白に基づいて同月三一日加賀市役所に照会がなされた結果、右自白に沿う回答があつたことは特に指摘するに値しよう。

次に、この件に関して、霜上と川北の供述が食い違う点は、五月八日、印鑑証明書一通を取つた後の行動についてである。すなわち、霜上は、「小松駅前コマビルのボーリング場から最後に宮川方へ電話したところ、連絡がついたので、川北、出嶋、自分の三人で宮川方へ行き、川北一人だけ宮川方へ入つた。」と供述するのに対し、川北自白は、「五月八日は宮川に会うことができず、結局同日午後五時頃、山中町の父重郎の工場から電話して宮川に保証人の印鑑証明書が取れたことを連絡した。」となつているが、この点についても前記宮川供述は川北自白に符合するものであり、川北自白が真実であると考える。

(Ⅲ)出嶋保証人の件

この件に関し、霜上は、「川北から出嶋に保証人を頼むと言われて最初一人で出嶋宅へ行つたところ、出嶋は川北からも頼まれているようなことをいつており、お礼のことを言つていた。次に、川北と一緒に出嶋宅へ行つたが、その後で北斗会館でパチンコをし、また出嶋が金を借りるため山代のヘルスセンター近くの質屋へ入り、腕時計を出したが断わられたことがあつた。最後に出嶋宅へ行つたのは印鑑証明書を取りに行つた時である。」旨供述するのに対し、川北自白は、出嶋に保証人を頼む件は霜上から言つた。そして最初霜上が一人で出嶋方へ行つたのであるが、出嶋が本人を連れて来いということで霜上と一緒に出嶋方へ行き、二階で話をして保証人の件を頼んでもらつた。その後三人で町へ出て出嶋が山代のヘルスセンターの近くの質屋で腕時計を質入れしようとしたが駄目だつた。北斗会館でパチンコをし、帰りしなに旅館「いづくら」の附近で男二、三人乗りの白色カローラに出会つた。次に二度目霜上と一緒に出嶋方へ行つた。この時出嶋の承諾を得、明日印鑑証明書を一緒に取りに行く約束をした。出嶋方でビールを御馳走になり、その時出嶋の母親が帰つてきて、母親から『あんた方どこの者や』と聞かれて、『山代の六区、一区の者』と答えた。」となつている。

ところで、第五回公判調書中の証人出嶋はるの供述部分及び同人の検察官に対する供述調書によれば、霜上と川北は五月上旬二回出嶋方へ来たこと、一回目の時は夜電話がかかつて来て武夫が「来いや」と言つておつたところ、間もなく二人で来て二階の部屋に上がり、しばらくして三人でどこかへ行つたこと、二回目はそれから三、四日してからのことで五月六、七日頃、はるが外から帰つて来たら、茶の間で三人でビールを飲んでおり、『あんたらどこや』と聞いたら、『一区と六区』とか言つていたことが認められ、川北自白を裏付けることが明らかであるが、霜上自身も、司法警察員に対する昭和四七年八月二日付供述調書中では、「五月三、四、五日あたり、川北と一緒に出嶋方へ行き、八日に印鑑証明書を取りに行くことが決つた。三人でビールを飲み、出嶋の母親から『あんたらどこの者や』と聞かれて、川北が、『山代の者や』と答えた」旨供述し、更に検察官に対する同年九月七日付供述調書中でも、「最初一人で出嶋方へ行き、一日位おいて川北と一緒に出嶋方へ行つた。この時出嶋の承諾を得、八日に印鑑証明書を取りに行く約束をした。三人でビールを飲み、出嶋の母親と会話をした。後でパチンチ屋へ行つた。」旨供述している事実を付言する。

なお、出嶋に保証人を依頼する話がどちらから出たかの点に関しても、宮川から金を借りるに至つた経緯、呉藤、出嶋との交友関係は川北よりも霜上の方が長くかつ深いと認められることなどから、霜上から出されたと解する方がより合理的であると考える。

(Ⅳ) 五月八日以後の出嶋との接触関係

五月八日に霜上、川北が出嶋と共に印鑑証明書を取りに行つた事実は霜上も認めるところであるが、それ以後の接触関係については両者全く供述を異にする。すなわち、川北は、「五月一〇日宮川方で小切手を受取つた帰途、午後九時半過出嶋のところへ行き、出嶋に会つて預つていた実印を返却し、「実は小切手やつたので明日銭にかえてから礼をする。明日八時三〇分頃前の道路に出ていてくれ。どこかへ飲みに行こう。」と約束をし、右約束に基づき翌一一日出嶋を誘い出して殺害した。」旨供述するのに対し、霜上は、五月一〇日宮川からの金借に当り、川北と行動を共にした事実はこれを認めながらも、出嶋に会つたことについてはこれを強く否定し、出嶋とは九日夜川北と一緒に小松の方へ遊びに行つての帰途、山代の本通りの旅館「いづくら」の前あたりで偶然出会つたのが最後であり、それ以後絶対に会つていない旨強調し、これを自己が殺人、死体遺棄事件に無関係である一つの根拠としている。

ところで、宮川からの金借に当り霜上が川北と行動を共にしたことは霜上の自認するところであるから、この帰途に出嶋と会つた旨の川北の供述が真実であるとすれば、このことはとりも直さず霜上が一〇日にも出嶋と接触していることを意味し、ひいては霜上の無実の主張の一角が大きく揺らぐことを意味する。そして、第四回公判調書中の証人宮川作衛の供述部分によれば、同人は、五月一〇日川北から出嶋の実印を受取つて約束手形の第一裏書人欄に押捺した後、これを川北に返却した事実が、又、第五回公判調書中の証人出嶋はるの供述部分によれば、出嶋が五月一一日午後八時頃外出したまま帰宅しないので不審を抱いたはるが二、三日後に武夫の部屋を探したところ、机の上に出嶋と刻した印鑑が一個置いてあることが発見された事実がそれぞれ認められ、又、右約束手形に顕出された印影は武夫の机の上から発見された印鑑、すなわち、五月八日加賀市役所に登録された実印によるものであることは一見して明らかであり、これらの事実を総合すれば、五月一〇日宮川から川北に返却された実印は一一日の出嶋の外出前に、すなわち、一〇日(五月一〇日の時点で宮川から川北の手に返却された右印鑑が一一日の外出の時点で出嶋の机の上に存在するためには、一一日出嶋が外出する以前に出嶋の手に戻つていなければならず、一一日にその可能性が全くない本件においては一〇日以外にはありえない。)に出嶋の手に返戻されたことが明らかである。そして、このことは川北が一〇日に出嶋に会つていること、すなわち、川北自白が真実であることを何よりも雄弁に物語るものといわなければならず、ひいては霜上の無実の主張はその一つの支柱を失つたことを意味する。

(Ⅴ) 共謀の日時、場所

川北自白によれば、出嶋殺害を共謀した日は、出嶋が保証人となることを承諾してくれた日で、その日に翌日印鑑証明書を取りに行く約束ができたことになつており、印鑑証明書を取つた日は五月八日であることは疑いのない事実であるから、結局五月七日と確定される。もつとも、五月七日に共謀があつたという事実そのものについては、川北自白以外他に裏付証拠はないが、これは事柄の性質上やむをえないものと考えられる。むしろ共謀の場所について、川北は取調当初恩栄寺と供述し、八月七日に至つてこれを灯明寺と訂正しているので疑問の余地なしとしないが、第二二回公判調書中の証人竹内俊一の供述部分によれば、川北の案内で共謀の場所を見分した結果、寺の名称についての川北の思い違いが判明したものであつて、共謀の場所自体は前後同一であることが認められるから特に問題はないと考えられる。

(Ⅵ) 五月一一日夜の犯行状況

この点に関する川北自白のうち、犯行にブルーバードが使用されたこと及び凶器の一つが切出し小刀であつたことについては極めて有力な物的証拠が存在すること既に検討したとおりであるが、犯行状況そのものについては、事柄の性質上裏付証拠がないので、川北自白の合理性について言及することとする。

まず第一に、犯行状況に関する川北の供述は極めて具体的で迫真性に富み、真犯人でなければ知りえない事項を多分に含んでいると思われるうえ、その内容自体も捜査段階からほぼ一貫している点を指摘しなければならない。

林弁護人は、川北の自白にかかる犯行状況の再現(司法警察員作成の昭和四七年八月九日付実況見分調書参照)については、犯行当時は闇夜である(月の出一一日二時五八分、月の入一六時三九分、月令二七・三日、昭和四七年神宮暦から算出した金沢での値。山中では一分程度の誤差がある。)うえ、川北は犯行場所から八メートル以上も離れたところで目撃していたことになるから、犯行状況が見える筈がなく、右自白は虚構のものである旨主張されるが、川北の自白によれば、「自動車のルームランプは点灯されており、当時の明るさはうつすらと見えるような状態であつた」というのであり、当裁判所が昭和四八年五月三〇日午後八時三〇分から午後九時一〇分までの間に実施した検証の結果では、全部の光源を消し暗闇にした場合でも、ぼんやりとではあるが、各人の各動作の違いを識別できること、ルームランプを点灯させた場合には、服装の違いまで判別できることが認められ、犯行当夜との気象条件、服装の色の違いを考慮しても、全く何も見えない状況であつたとは認められず、川北自白はこの面からも客観的な裏付があるといつてさしつか

えないと考える。

次に、川北の自白にかかる犯行状況については、他の証拠によつて認められる客観的事実との間に齟齬は認められない点を挙げなければならない。

この点に関して林弁護人は、(イ)川北の自白にかかる突刺部位と出嶋の着衣に存する損傷痕との間には著るしい齟齬がある。(ロ)霜上方工場にはそもそも根切りよきは存在しなかつた。そしてこのことは捜査官の数度にわたる必死の捜索にもかかわらず、ついに根切りよきが発見されなかつたことに如実に示されており、川北自白は全くの虚構にすぎない旨強調されるので、少しく検討を加えることとする。

(イ) 川北の自白にかかる突刺部位と出嶋の着衣の損傷痕との不一致について

川北自白によれば、「霜上は、運転席から降りて車の後ろを回つて後部座席の左側のドアを開け、左側の席に座り、出嶋に対し、『どこか面白いところがないか。』と話しかけ、出嶋が、『実は福井の飲屋で知つたところがあるから行つてみるか。』と返答するやいなや、切出し小刀を取り出して出嶋の左脇腹を一回刺した。そうしたら出嶋は『ウウツ』とうめき声を上げて突かれた脇腹のあたりを押えるようにして前かがみになつた。霜上は出嶋の胸倉をつかんで車の外に引きずり出したところ、出嶋は車の後ろの方へ逃げて行つた。霜上はそれを追いかけて行つて腹の辺か腹か胸のあたりを突き刺した。このときに『バスツ』という音がした。音がしてすぐ出嶋の姿勢が崩れて倒れかかるところをもう一度突いていた。三回目に刺した部位はちよつと覚えがない。」というのである。

ところで、第二四回公判調書中の証人何川凉の供述部分及び同人作成の昭和四九年九月一七日付鑑定書によれば、出嶋の着衣(背広上衣、長袖シヤツ、メリヤスシヤツ)には刃器によると思われるもの及び疑わしいものを含めて一一個の損傷があり、そのうち最下側のメリヤスシヤツだけにあるものが損傷六から一一まで(同鑑定書添付写真参照)で、被害者の皮膚面に達していると思われるのは損傷一(左鎖骨部)、損傷二(左乳内側)、損傷三(左肩外側)の三個であり、これらはいずれも刺創で、片刃の刃器によると思われること、敷衍すると、右三個の損傷痕だけは鑑定上一応確実に片刃の刃器によつて刺された傷であるといえるもので、それ以外に刃器による傷がないという意味ではないことが認められ、又、第一三回公判調書中の証人川端孝一の供述部分及び司法警察員作成の昭和四七年七月二九日付捜査報告書によれば、背広上衣とシヤツ二枚の胸部、左肩部に一見刃物様のものによると認められる不自然な痕跡があること、その趣旨は、当該部位は鮮明に地肌が残つており、いわゆる地肌のしつかりした部分に明瞭な不自然な痕跡があつたことからそのように判断したのであつて、それ以外の部分の損傷については判定が困難であつたことが認められ、結局これらの事実を総合すれば、胸部、肩部には鮮明な地肌が残つていたことから、当該部位の損傷痕については鑑定上一応確実に刃器によつて生成されたと判断することができるが、その他の部位に刃器による損傷痕があるか否かを確実に判定することは困難であるということに帰着し、そうだとすると、川北自白にかかる突刺部位に対応する損傷痕が鑑定上明瞭でないからといつて、右鑑定書との間に矛盾があるということはできない(現に出嶋の着衣に刃器によると思われるもの及び疑わしいものを含めて一一個の損傷があること前記鑑定書の記載により明らかである。)。

まして川北は、霜上の犯行状況をはつきりと目撃したわけではなく、川北自白によれば、「うつすらと見えるような状態」であつたのであるから、この点を把えて川北自白を非難するのは的外れの感を免れがたい。

(ロ) 根切りよきの不存在について

川北自白にかかる根切りよきが累次の捜索にもかかわらずついに発見されなかつたことは林弁護人がつとに強調されるところであるが、そのことから直ちに川北自白が虚偽であると断ずることは相当でなく、我々は更に進んで出嶋の頭蓋骨に存在する陥没骨折が果して根切りよきによつて可能かどうかを検討しなければならない。

第二一回公判調書中の鑑定人何川凉の供述部分及び同人作成の昭和四七年八月二二日付鑑定書によれば、頭蓋骨前頭骨の中央線から四センチメートル右で、冠状縫合の右枝から三センチメートル前方、右上眼窩縁から七センチメートル上方の部位に低いテント状に陥没し、最深部は頭骨面から約〇・七センチメートル陥没する陥没骨折が存在すること、右陥没骨折から特定の凶器を推定することは極めて困難であるが、作用面は平らではなく、突起部及び線状の角があり、金属あるいは固いものと思われること、敷衍すると、本件骨折は湾曲骨折という部類に入るが、湾曲骨折の場合は凶器の作用面がそのまま骨折面に印象づけられること、換言すれば、骨折面は正に凶器の作用面(接触面)を表わすことになり、テント状に中へ突張つていることから必ずしも平たくなくて、むしろ接触面に突起したというかそういうものがあるのではないかと、それから骨折後の噴火口のような内部において線状のようなものが何かみられることから接触面の部分にそういう線状をした部分があるのではないかと、例えば、金槌の先が輪切りにしたような平たい形ではなくて、先がやはり突起部があつたり、先端に線状の部分があるのではないかと推定されることが認められる。

次に、川北は、「霜上は根切りよきの峰で殴つた。」旨供述し、根切りよきの性状について、「直径五センチメートル位のやや楕円型の長さ一メートル程の木の柄のついたもので、縦二〇センチメートル余り、刃幅一〇センチメートル位のもの。」(司法警察員に対する昭和四七年八月一一日付供述調書)、「柄のところが楕円型で(警察で見せられたものはみな細長い四角いやつであつた。)、大体見たところでは、持つた感じではごつごつしていたし、傷もいつていたし、新しいものではない。刃の方は帰つてきて洗う時に見た感じでは、そんな新しい感じではないですけれども。刃の峰のところは大分丸みを帯びていましたけれども。」(第九回公判)、「よきの刃の峰の部分は角がつぶれておつたと思う。新しいと角立つているが、霜上の使つたよきはこの峰の角がつぶれて欠けていた。確かよきの先端の方の角が欠けていた。何かペコタンと峰の方がすり減つたというかへつこんでいた。」(第一〇回公判)、「長さでは符号三三号のよきが似ている。もうちよつと長かつた。刃の方は符号三四号の刃だけのものに似ている。その背の部分はすり減つて丸くなつて・・・。実際使つた凶器は欠けて・・・角ばつたところがくずれて取れている感じ。」(第一三回公判)とそれぞれ表現しているが、川北の形容にかかる根切りよきの峰の形状は、むしろ右鑑定書が推定する凶器の接触面に類似するものと認められ、少くとも矛盾するものではないといえる。そしてそうだとすれば、この点に関する川北自白も客観的事実と何ら矛盾するものではないといつてよかろう。

なお、霜上の父鉄男は、第二三回公判において、「霜上方工場にはそもそも根切りよきは存在しなかつた。」旨供述するが、川北自白は実際に存在した物を前提としなければ語れないと思われるほど具体的で生々しいこと、鉄男の父は炭焼きをやつていたもので、根切りよきはその必須の用具であること、本件における鉄男の立場に鑑み、たやすく措信しがたい。

(Ⅶ) 犯行後の行動

この点に関する中心的事項は、(イ)凶器の仕末、(ロ)出嶋の靴の投棄であるが、(ロ)については、川北自白の信用性を裏付ける極めて有力な物的証拠であるから、少しく詳しく検討することとする。

(イ) 凶器の仕末について

川北自白によれば、「霜上は、午後九時半か一〇時頃、漆器団地の霜上方工場に戻り、工場の玄関の外の水道の蛇口でよきの峰の方を洗つた。はつきり覚えないが、何か赤い血のようなものが付いていた。それから車に戻つて布切れを出してそれを水で濡らし、車の後部座席に附着した血痕を拭き取つた。」ということになるが、当裁判所が昭和四八年五月三〇日午後九時三三分から午後一〇時一〇分までの間に施行した検証の結果によれば、霜上方工場出入口付近は街灯の照明でかなり明るく、人の顔がはつきり識別できること、赤チンキをスコツプに附着させてこれを検したところ、街灯の光がまともに当つた時は液体が赤色であることが認識され、光が横から当つた時は、黒色と認識されることが認められ、川北自白に客観的な裏付けのあることが明らかである。

次に、「車の後部座席に附着した血痕を拭き取つた。」旨の供述については、後部座席のビニールカバーの縫い目の糸の部分からのみ人血が検出されたという事実が何よりも雄弁にこれを裏付けていること既に指摘したとおりである。

(ロ) 出嶋の靴の投棄について

1 川北自白によれば、「出嶋を引張つて行く時、靴が抜けてなかつたので、『靴を捜す』と言つて探した。霜上が靴を見つけ、それを車の運転席の横に載せた。霜上方工場に戻つて道具を片付けた後、どこかトルコ風呂へでも行くかということになり、靴が残つていたのでどこか片山津の方で捨てようとして片山津の町はずれまで行き、そこから方向転換して帰つて来る時、霜上が運転席から片方づつ投捨てた。それから片山津の町の中へ入つてトルコ白鳥に行つた。」ということになる。

2 靴の発見、領置の経緯

第二二回公判調書中の証人山田正春の供述部分及び川北の司法警察員に対する昭和四七年七月二八日付供述調書によれば、川北は、昭和四七年七月二八日、司法警察員山田正春の取調に対し、出嶋殺害の事実及び出嶋殺害後霜上が出嶋の靴を片山津の街を通り過ぎた草原のところへ捨てた旨自白したこと、右自白に基づき、同日午後五時頃、川北の案内で山田正春他数名が投棄現場に赴き、五、六人の者で草原の中へ入つて探してみたが、現場はつる草、よしなど人の背丈程の草が密集していて地面が全く見えない状態であり、又、かなり広い場所でもあつたので、翌日草刈りをして捜そうということでその日は引揚げたことが、第三回公判調書中の証人中居峯美、同相沢修二、同山岸源吾、第二四回公判調書中の証人中居峯美の各供述部分及び司法警察員作成の昭和四七年七月三〇日付実況見分調書によれば、翌二九日午前九時頃から警察官、交通防犯推進隊員合計一六名が一メートル間隔で一列横隊に並んで県道の方から草を刈つて捜索したところ、約一時間後に、同実況見分調書添付見取図<5>の地点で、沢井巡査部長が右靴を発見し、それから二・三分後に約二メートル程離れた同見取図<4>の地点で推進隊の出村隊長が左靴を発見したこと、靴は刈つた草の一番下(地表の枯草の下の方)から発見され、中には枯草の細いものがいっぱい入つており、まめ虫などの虫の巣になつていたこと、靴は発見後直ちにそのままの状態で写真撮影をした後、山岸捜査官の手によつて領置されたこと、したがつて領置調書の日付の記載は誤記であると認められることが、それぞれ認められる。

次に、第五回、第二八回公判調書中の証人出嶋はるの各供述部分によれば、右領置にかかる茶色皮短靴は、昭和四七年五月一一日午後八時頃、出嶋が外出する時に履いていつたものに間違いないことが確認される。

以上の靴の発見、領置の経緯に鑑みれば、茶色皮短靴は川北の自白に基づいてはじめて発見されたものと認められ、川北自白の真実性を強く裏付けるものであるが、更に、菅野英二郎作成の鑑定書によれば、本件靴が屋外に長期間暴露されたかどうかは正確に判定することは非常に困難であること、甲及び腰裏材料などから見て屋外に暴露されたようにも思えるが、合成皮革靴の暴露実験を行つた経験がないので推定が不可能であることが認められ、右鑑定書の記載もむしろ川北自白を支持するものであれ、決して矛盾するものではないこと、又、当裁判所が昭和四八年八月四日午前一一時から午前一一時三七分にわたつて施行した検証の結果によれば、靴の発見地点はいずれも道路脇の電柱から一一・九メートルないし一二メートルの距離にあり、道路上から十分投棄可能な距離であることが認められ、川北自白に客観的な合理性があることが明らかである。

(5) 供述の経緯及び取調状況

第二二回公判調書中の証人山田正春、第二四回公判調書中の証人表川勇の各供述部分によれば、昭和四七年七月二六日、白骨死体が発見され、被害者の身元が判明した後、家族の口から出嶋と最後に接触した人物として川北の名が浮び、川北は、翌二七日参考人として表川巡査部長の取調を受けたが、この時には殺人、死体遺棄事件については一切触れるなとの取調方針により、出嶋が行方不明になつた前後の川北の行動について取調がなされただけであつたこと、翌二八日は午前九時頃から今度は被疑者として道村警部補、山田巡査部長の取調を受けたが、当初道村警部補から身上、経歴関係の取調を受けた後、山田巡査部長から、「川北というのはお前か。何というお前は恐ろしいことをしたのか。ああいう恐ろしいことをして判らないと思つていたのか。昨日はお前の言うなりの調書を取つたが、今日はそのようなわけにはいかんのだぞ。正直に話をする気があるのかないのか。」と追及されて、「いや、あれはわしがやつたのではない。あれはわしが側におつて見ていただけなのだ。」と口をきり、更に「わしでないというのは誰だ。」と言われて、「あれはやつたのは霜上で、霜上がナイフで三回程突いて逃げて倒れたところをまさかりで殴つて殺した。」旨犯行のあらましを自白し、以後犯行の動機から最後に帰宅するまでの行動について素直に自供したことが認められ、その間に暴行、脅迫、強制、誘導その他自白の任意性を疑わせるような不当な取調がなされた事実はこれを窺うことができない。殊に取調官にほとんど予備知識がなかつたと認められることから、誘導的な取調が行なわれた節は全く窺えないことは特に指摘するに値しよう。次に、第二二回公判調書中の証人竹内俊一の供述部分によつても、逮捕(昭和四七年七月二八日午後七時一五分)以後の取調に際して同様自白の任意性を疑わせるに足りる事実はこれを全く認めることができない。

(6) 総合的考察

以上のとおり、川北自白をあらゆる角度から検討した結果、当裁判所としては、川北自白は真実を述べたものとして十分に信用するに値するとの結論に達した。

(三) 霜上のアリバイ

霜上は、昭和四七年七月三〇日、殺人、死体遺棄事件について初めて調書を作成されたが、その際五月一一日の行動について説明を求められ、「五月一一日は、川北と一緒に、前日小松市の宮川という高利貸から手形を割引いてもらい、その対価として受取つた小切手を、小松の銀行で換金して、そのお礼として川北から一万円もらつた日ですからよく憶えていますが、午後七時過まで仕事をし、工場で両親と共に夕食を済ませ、軽四輪に母を乗せて山中町東町の自宅に帰り、一休みした後午後八時頃、友人の中野健一の家に行つた。中野の家へ行つたら、山田進がいたのだつたか、私のすぐ後から来たのか憶えていないが、とにかく三人集まり、山田と見合いの結果などについて話合い、午後一二時頃まで中野の家にいて、帰りに山田を家の近くまで送つて帰宅した。」旨供述し、取調官から、「中野や山田に聞いたところ、そのような事実はないがどうか。」と反問されても、「そんなことはない。」と述べ、以後八月四日、八月二三日、九月一二日の検察官の取調に対しても右主張を維持し、殊に九月一二日の取調の時には、「五月一一日の午後八時頃は友人の中野健一の家に遊びに行つていた。そのことについてはさきに横山検事さんに詳しく申しあげたとおりであり、中野とその場にいた中野の母親、山田進の三人が良く知つている筈ですが、殺人事件にかかわりたくないので本当のことを言つてくれないのです。山田とは逮捕されてから警察で調べの時に会つていますが、その時も一一日の晩には会つていないと言つておりました。しかし、私はその晩確かに中野の家に遊びに行つていたのに間違いない。」旨強調している。そして、第二回公判廷における証人中野健一、同山田進の尋問に際し、同人らから、「一一日には絶対に会つてい

ない。」旨明言され、霜上自ら反対尋問権を行使し、一一日以後会つていることを強調していることは特に注目に値する。しかしながら、第六回公判において、証人霜上鉄男が、「五月一一日夜、山中ゴルフセンターにゴルフの練習に行き、午後一〇過帰宅し、自宅でテレビを見ていた時、霜上が二階から降りて来て便所に行つた。霜上は寝巻姿だつた。」旨供述をするや、霜上は、第一五回公判において、それまでの主張を捨てて、「午後七時頃仕事を済ませて、軽四に母親を乗せて山中の自宅へ帰つた。父はブルーバードに乗つてゴルフの練習場へ行つた。自宅へ帰つてから軽四に乗つて風呂(総湯)へ行つたような記憶がある。三、四〇分して帰宅したが、家には母だけがおり、テレビを見ておつたような記憶がある。テレビは「ふるさとの歌祭り」をやつていた。自分はテレビが余り面白くなかつたので、二階に上がつて自分の部屋で週刊誌を読んだりしていた。その日は外出していない。父は一〇時過に帰つてきた。中野健一君の家へ行つたというのは思い違いで、未決で長いこといていろんなことを思い出したが、それで私の記憶が間違つていたということがわかつた。中野君のところへ行つて山田君と会いお見合いの感想を聞いたのは、五月八日、川北、出嶋と三人で加賀市役所に印鑑証明書を取りに行つた日である。宮川さんのところへ行く前にコマビルのボーリング場へ行き、そこで私の知つている山本節子に会つたが、そのことを中野君に話をしたから五月八日に絶対間違いない。」旨供述するに至つた。霜上は、七月三〇日に最初の調書を作成されて以来、実に一六通の調書を作成され、その間はもとより、第二回公判においても当初のアリバイ主張を強調してやまなかつたこと右に検討したとおりであるが、本件の如く自己の記憶を喚起する手がかりとなる事項(例えば、五月八日は印鑑証明書を取つた日、五月一〇日は川北が宮川から小切手を受取つた日、五月一一日は右小切手を換金した日というように)に事欠かず、又、中野や山田の供述と符合しないことを告げられ、再考の機会が数多く与えられていた事案において、しかも、極刑さえも科されかねない殺人事件の嫌疑をかけられた者として、そのアリバイ主張に思い違いなどということが果してありうるであろうか、甚だ疑問であつて到底採用のかぎりではない。

そして、更に指摘しなければならないことは、当初のアリバイ主張のみならず新たなアリバイ主張そのものも他の証拠によつて認められる客観的事実と明白に齟齬するという点である。すなわち、第二回公判調書中の証人中野健一、同山田進の各供述部分及び中野健一の検察官に対する供述調書によれば、1.四月下旬頃、中野方で、中野、霜上、山田の三名が会い、その時初めて霜上から山田に対して見合いの話が持出されたこと2.四月末の日曜日に、山田が霜上の家へ行き、そこで霜上、霜上の両親と会つて相手の写真を見せてもらつたりしたこと3.五月四・五日頃、セブンで中野、霜上、山田の三名が出会い、それから霜上方工場へ行つて写真の感想などを話合つたこと4.五月七日日曜日に山田が見合いをしたが、霜上はついて行かず、霜上の父がついて行つたこと5.山田は見合をした後には霜上とは会つていないが、中野は五月一〇日頃、石橋樹脂の前で、停車中の車に乗つた霜上と会い、「オー」と声をかけたことがあつたが、それ以後は霜上と会つていないことが認められ、又、五月一一日には鉄男がブルーバードを使用していないこと既に検討したとおりである。そして、第六回公判における証人霜上鉄男の供述についても、同人自身司法警察員に対する昭和四七年七月二九日付及び検察官に対する同年九月一二日付各供述調書中では、「一一日霜上が外出したかどうか憶えがない。」旨、又、検察官に対する同年八月二九日付(標目書番号第35番)供述調書中では、「私達夫婦が茶の間でテレビを見ていた時に霜上が二階から寝巻を着て便所に降りてきたことがあつたが、それは五月一一日か一二日のどちらであつたかはつきりしない。」旨それぞれ供述していること及び同人の立場に照らしにわかに信用しがたい。

結局、以上の検討の結果を総合すれば、霜上のアリバイは完全に崩壊したといつても過言ではないであろう。

(四) 犯行の動機

第一二回公判調書中の証人尾花忠生、同山本敬三の各供述部分、同人らの司法警察員に対する各供述調書、霜上鉄男、霜上美弥子の昭和四七年七月二九日付各供述調書並びに霜上の検察官に対する昭和四七年五月二五日付、同月三〇日付及び司法警察員に対する同月一七日付(標目書番号第76、第77番)、同月一九日付(標目書番号第80番)、同年八月二日付(標目書番号第72番)各供述調書によれば、霜上は、父鉄男から月々二万円の小遣いをもらつていたが、スナツクやボーリング、トルコ風呂などの飲酒遊興費が嵩むため、小遣銭に不自由していたこと、しかしながら、父に対しては小遣いをもらつている手前もあり、飲酒遊興に費消したため小遣銭が不足するとも言えず、そのため講からの借り入れで出費をまかなうべく、三月中旬頃勝友会から二万円を、同月二〇日過頃生流会から同様二万円を借り入れたこと、右借入金の返済は勝友会分は毎月五〇〇〇円、生流会分は毎月二〇〇〇円づつと決められていたが、勝友会分については四月分の返済ができず、五月上旬に返済を請求されたため、四・五月分をまとめて一万円支払い、生流会分については四月二二日四月分として二〇〇〇円を支払つたこと、しかしながら、残金の返済については、前述のとおり父に相談することもできず、又、月々の小遣いは飲酒遊興に費消してしまうため、その見込みが立たず、更に、勝友会では六月三日に関西・大阪方面の旅行が予定されていたが、その費用調達のあてもなかつたこと、そのため霜上は、五月上旬頃父鉄男の預金通帳を持ち出して預金を引き出そうとしたが、印鑑がなかつたためその目的を遂げることができなかつたことが認められ、右事実によれば、霜上は本件犯行前には一応金銭の捻出に苦慮していたものということができる。

ところで、林弁護人は、川北所有の現金二〇数万円を奪うためならば何も出嶋を殺害したうえ更に川北を殺害するという迂路を経る必要はなく、直接川北一人を殺害すれば足り、これが直接効果をねらう犯人の通常の心理であるから、霜上には出嶋を殺害しなければならない合理的な理由は全くなく、公訴事実記載の動機は甚だ不自然なものである旨主張されるが、この点に関しては、霜上は債権者である宮川に対しては宮本という偽名を使用し、しかも、川北を紹介した後には宮川の前に全くその姿を見せていない事実を考慮しなければならない。すなわち、検察官が指摘するように、出嶋を殺害したうえ、川北をも殺害してしまえば、もはや宮川の口から霜上の名前が発覚するおそれはほとんどないといつてよいであろうし、仮に川北の交友関係から霜上の名前か浮かびあがつたとしても、霜上を犯人として断罪する生き証人は誰もいないことになるからである。そして、川北が五月一四日須谷町の林道で霜上から刺殺されそうになつたことは証拠上明らかであるところ、五月一四日に両名が落ち合う約束は、川北の供述によれば、一一日の犯行後帰宅途中の車の中で霜上から持ち出されたものであること、東尋坊方面から山中町へ帰るのに明らかに回り道となる須谷町を経由しているが、右回り道の必要性や理由につき何ら合理的な説明がなされていないこと、二つの犯行の手口の類似性などに鑑みれば、二つの事件を有機的に関連させて考察することも十分理由があるものというべく、霜上には出嶋殺害の合理的な動機があつたと考えても決して背理ではなかろう。

(五) 総合的考察

以上、証拠上疑いの余地がない外形的事実から出発して本件犯行と霜上との結びつきにつき種々検討した結果、当裁判所としては、霜上は犯人であることに間違いないとの確信を得ることができた。

よつて判示のとおり認定した次第である。

第二  強盗致死未遂事件について

林弁護人は、(一)霜上は川北の顔面に血が流れているのを見て驚き、直ちに自己の意思により犯行を止めたものであるから、中止未遂が成立する。(二)霜上は本件犯行時心神耗弱の状態にあつた。(三)霜上には金員強取の意図も川北殺害の意図もなく、本件は、霜上が川北から裏切られたことに対する怒りと反感に端を発した単なる傷害事件に過ぎない旨主張されるので判断する。

一  中止未遂の成立について

第七回公判調書中の証人川北重昭の供述部分、川北の検察官に対する昭和四七年八月一五日付供述調書並びに第一六回公判調書中の霜上の供述部分、霜上の検察官に対する昭和四七年五月二五日付、同月三〇日付及び司法警察員に対する同月一四日付、同月一七日付(標目書番号第77番)、同月一八日付各供述調書を総合すれば、霜上は、川北の顔面にいきなり水をかけて目つぶしをすると同時に川北の脇腹を切出し小刀で一回突き刺し、続けて顔面や胸部などを切りつけ、更に倒れた川北の腹部をめがけて突き刺そうとしたところ、川北に小刀の刃と柄を両手でつかまれたため、川北との間で小刀の奪い合いとなり、結局、川北に小刀を押さえられたまま自動車のドアのちようつがいのところで小刀を折られたため小刀を捨てた事実が認められ、右事実によれば、霜上は川北の必死の抵抗に会つて犯行を断念せざるをえなかつたことが明らかであるから、障害未遂が成立し、この点に関する弁護人の主張は採用できない。

二  心神耗弱の主張について

一掲記の各証拠によれば、霜上は、本件犯行前福井から須谷まで正常に自動車を運転したきたこと、犯行現場に到着し

てからも、川北に対し、「金の都合がつかなくなつた。」旨話をし、更に一旦下車してから小刀と水の入つたクリープのびんを取りに戻り、水をかけて目つぶしをした後凶行に及んでいること、川北の抵抗にあつて犯行を断念した後土下座して謝つていること、その後再び車を運転して山中まで帰つており、途中パンクの修理をしたり、クリープの空びんや血痕の附着した着衣を川に投げ棄てたり、工場へ立寄つて着換えをしたりしていること、犯行後の取調に当り犯行前後の行動についてよく記憶していたことなどの事実が認められ、これらを総合して判断すると本件犯行当時霜上が事理の弁別能力及び判断能力を著しく欠いていた状態にはなかつたことが明らかであるから、この点に関する弁護人の主張も採用できない。

三  金員強取の意図及び殺意がなかつたとの主張について

この点については第一、(四)犯行の動機のところで既に検討したとおりであるが、殺意の点について若干補足しよう。

中島正雄作成の昭和四九年一一月二八日付鑑定書及び霜上の司法警察員に対する昭和四七年五月二四日付供述調書によれば、当該凶器は、刃先の一部が欠けているが、刃体の長さ約一〇センチメートル、そのうち切れる刃のついた部分は約五センチメートル、刃幅の最も広い部分約二・三センチメートル、峰の厚さの最も広い部分約〇・四三センチメートルの切出繰小刀と推定されることが、次に、久藤豊治の司法警察員に対する供述調書及び同人作成の診断書によれば、川北は右前胸部貫通刺創、右第九肋骨骨折、顔面、右胸部、両肩、右上腕、右手掌、右肘部切創により安静加療一か月を要する傷害を受けたこと、右各切創は、顔面切創を除き、いずれも幅三センチメートルから六センチメートルに及び、三針から五針の縫合を要したこと、右第九肋骨は完全に骨折しており、右脇腹に刃物を強く差し込んだような状態であつたことなどがそれぞれ認められ、以上のような凶器の性状、傷害の部位、程度に照らせば、殺意を肯定するに十分であつて、この点に関する弁護人の主張も採ることができない。

(量刑の事情)

一  被告人霜上について

(一)  まず犯行の態様について検討すると、被告人らは、好意から保証人となることを承諾してくれた出嶋に対し、「保証人を引き受けてくれた礼をするから。」と申し欺いて同人を人跡稀な林道の奥に連れ込んだうえ、被告人霜上において、「どこか面白いところはないか。」と話をもちかけ、お礼としてどこかへ飲みに行くものとばかり思つていた出嶋が、「実は福井の方に知つたところがあるから行つてみるか。」と返答するやいなや、被告人霜上において、いきなり所携の刃渡り約一〇センチメートル(そのうち切れる刃のついた部分は約五センチメートル)の切出し小刀で出嶋の左脇腹を一回突き刺し、突然の凶行に腹を押さえて前かがみになつた出嶋の胸倉をつかんで車外へ引きずり出し、それでもなお車の後ろの方へ逃げようとした出嶋を追いかけていつて同人の腹部、胸部、肩部などを一〇数回滅多突きにしたうえ、既にその場に倒れて虫の息となつていた出嶋の頭部を予め用意した根切りよきの峰で一回殴打してとどめを刺したものであつて、犯行の様相はまことに冷酷、無残という外はない。

(二)  しかも本件犯行は、後述犯行の動機からも明らかなように、予め十分に計画したうえ敢行されたもので、判示第三の被告人川北からの金員強奪のための手段でもあり、かつ、犯行隠蔽の意味をあわせ持つという一面があるのであつて、この点においても犯情は悪質といわなければならない。

(三)  又その動機を考察するに、被告人霜上は、スナツクバーやトルコ風呂などで夜遊びを重ねたことから小遣銭に不自由するようになり、そのため講からの借り入れで当座をしのぐべく、三月中旬以後合計四万円の金銭を借り入れたが、相も変わらず飲酒遊興に耽つたため、右借入金返済の目処が立たず、折から六月三日には講の関西旅行が予定されていたが、その費用調達のあてもないことから金銭の捻出に苦慮し、他の打開策を見出すためのなんらの努力もなすことなく、被告人川北をしてたまたま飲屋で知り合つた高利貸から金借をさせたうえ、同被告人を殺害してその金銭を強奪することを思いつき、その手筈を整えたところ、右高利貸から保証人を要求されるに及んで自己の犯行を隠蔽するため、右保証人をも殺害しようと計画し、これを実行したものであつて、その犯行の動機において同情の余地なく、更には右計画実現の過程においても非情なまでの冷酷さが窺え、酌量すべき余地は何ら認められない。

(四)  本件犯行の被害者となつた出嶋は、父出嶋安太郎、母はるの四男として生まれ、両親の愛情を受けて健やかに成長し、山代中学校を卒業して暫く家業の手伝いをした後、一時工員などをしたが、被害時には家業に戻つて真面目に仕事に従事していた年齢満二四才の前途ある青年であつて、好意から保証人となることを引き受け、更に被告人らの言を信じてお礼としてどこかへ飲みに連れて行かれるものとばかり思つていたところ、突然前示のような凶行に見舞われ、抵抗らしい抵抗もできないままその生命を絶たれたものであつて、同人の無念、悲憤は推測するに難くない。

又、両親にとつても、ほぼ一人前の職人として立派に成長した同人の将来に期待を寄せていた矢先の出来事であつて、殊に被告人らに呼び出されて外出する直前に洋服に着換えた被害者がその数時間後には一命を奪われるとも知らずに、「父ちやん、わしも大分老けて見えるようになつたやろ。」と誇らし気に語つた姿を見たのを最後にして、そのまま戻らぬ我が子の身を案じつつ、一日千秋の想いでその帰りを待ちわびるうち、二か月半後には無残な白骨死体と化したその姿を見る憂き目に遭つたもので、これにより両親はもちろん、家族一同の受けた衝撃と心痛は測り知れないものがある。そして毎月一一日を命日として、命日毎に亡武夫の冥福を祈るため犯行現場に花を手向け、当公判廷においても、「良心に帰つて自白してくれれば厳罰を望まない。」と言葉少なに語るその心情には察して余りあるものがある。

(五)  次に、被告人霜上の生立ちについて見れば、同人は幼少時病弱であつて、そのため一年間落第せざるをえなくなり、そのことが少年の心に相当の傷を残したであろうことは容易に推測できるが、中学校を卒業してからは健康体となり、中流家庭の一人子として両親の愛情と期待を一身に受けてきたことが窺われ、その家庭環境、経済的環境、地域的環境などにおいて本件量刑上被告人霜上に有利に考慮できるような特別な問題点は見出し難く、本件犯行についての責はすべて被告人霜上自らが負うべきものと認められる。

(六)  被告人霜上は、捜査段階以来、本件については一貫して無実を主張し、当公判廷においても被告人川北の供述時には肩をいからせてこれをにらみすえる態度に終始し、被害者に対する慰藉はもとより、本件犯行についての反省は全くなされておらず、その心情の非人間性にはいうべき言葉もない。

(七)  以上考察してきたところによると、本件犯行はその罪質、結果が極めて重大であるうえ、その動機、態様の悪質さにも格別のものがあり、又被害感情及び凶悪な殺人事件としてその社会的影響も甚大であるといいうるのであつて、被告人霜上の刑責は法の予想する最も重いところのものといわざるをえず、被告人霜上にはこれまで格別の前科前歴がないこと、現在まだ二九才の若者であること、同被告人の両親が事件発覚後今日までいたたまれない思いで暮らして来た末に今また本判決により深く悲嘆の情にくれるであろうことなどを最大限被告人に有利に斟酌し、かつ、死刑制度に関する諸外国の立法の動向や死刑廃止を求める様々の主張に対する考慮を十分にめぐらしても、やはり死刑制度が存置されているわが法制のもとにおいては、被告人霜上に対し極刑を以つて臨むもやむをえないものと考える。

二  被告人川北について

被告人川北は、一口に言つて被告人霜上に利用された格好であり、実質的には被害者ともいえるが、自己の利欲を遂げるためにたやすく被告人霜上の言に同意して行動を共にし、その結果何の罪もない一人の前途ある青年の命を奪つた刑責は極めて重大であるといわなければならない。

しかしながら、同人は幼年時の発育不順が原因で通常人に比してかなり知能が低いこと、本件犯行に及んだのも被告人霜上にそそのかされ、これに従つたためであることが窺えるとともに、具体的な実行行為も後部トランク内から根切りよきを取り出して被告人霜上に手渡したにすぎず、終始従属的な立場にあつたと認められること、本件犯行については捜査の当初から潔くこれを自白し、当公判廷においても「亡出嶋の冥福を祈りたい。」旨供述するなど十分反省の態度が認められること、本件犯行前に何らの前科前歴もないこと、現在まだ二七才であることなどの被告人川北に有利な事情を十分に斟酌して、被告人川北に対しては懲役八年に処するを相当と考えた次第である。

よつて主文のとおり判決する。

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